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日本のハンバーガーあれこれ(スタート編)

今や、ハンバーガーは日本人にとってファストフードの代表格です。そんなハンバーガーにまつわるいろいろな話をご紹介する「日本のハンバーガーあれこれ」。今回は、スタート編として、日本のハンバーガーのはじまりをご紹介したいと思います。

ハンバーガーの元になったハンバーグは、もともとドイツのハンブルクで食べられていた「タルタルステーキ」という生ひき肉のステーキから始まりました。ハンブルク港から多くのドイツ人がアメリカに渡り、移民として独自の文化を作って行く中で、タルタルテーキは、やがてハンバーグ(hanburg)と呼ばれる料理へと変化していきました。1800年代の終わりごろになると、そのハンバーグをパンにはさんで食べる方法が広まり、やがて全米で「ハンバーガー発祥の地は当地」という論争が多くの街で起こるほどの、ソウルフードとして定着していったのでした。

そんなハンバーガーが最初に日本上陸を果たしたのは、佐世保でした。1952年に日米行政協定により米海軍基地に指定された佐世保には、米軍兵士によってハンバーガーのレシピが伝えられました。なんと、基地ができた翌年1953年には、ブルースカイというハンバーガーショップが開店しているのですから、兵士たちのハンバーガー熱はすごいものだったのでしょうね。

今や「佐世保バーガー」はご当地バーガーとして知らない人はありませんが、それはその『熱』で生み出されたハンバーガーレストランの数が生んだものであり、決まったレシピや材料を呼ぶものではないそうです。強いて言えば、「注文ごとに作る」「作り置きしない」のが佐世保流。当時のハンバーガーはこうなのかもしれませんね。

さて、佐世保ではハンバーガーがすっかり定着した1970年ごろには、新商材としてのハンバーガーで儲けようとばかり、ビジネス熱が盛り上がりました。それが、米国マクドナルドの日本上陸でした。

当初、米国マクドナルドは日本上陸のパートナーとして、当時の日本の流通業界で破竹の勢いであったダイエーの中内社長と交渉を続けていました。しかし、合弁会社の持ち株比率でどうしても折り合わず交渉が決裂してしまいました。

そこに、藤田商店という貿易会社を経営していた藤田田氏が現れて、あっという間に契約を取り付けました。米国を含む海外との貿易事業で国際感覚を身に着けた藤田田社長に、どうしても日本進出をしたい米国マクドナルドのクロック社長がアプローチをしたもののです。

しかし、すでに米国マクドナルドのオペレーションを学んだ中内社長は、ハンバーガーチェーンという業態をあきらめませんでした。すぐに自社で独自のハンバーガーチェーンの準備に入り、1970年2月にメイドインジャパンの『ドムドム』をオープンしたのです。

ドムドムとは、ダイエーチェーンの社是であった「良い品をどんどん安く」から名付けられました。中内社長は1980年には高級路線の米国「ウェンディーズ」を日本出店しましたが、2002年にはゼンショーに売却。ダイエー本体の経営不振により2017年にドムドムハンバーガー事業から撤退するまで、47年間にわたり、日本のハンバーガー市場の一翼を担ったのです。

さて、藤田田社長率いる日本マクドナルド株式会社は、ドムドムから1年遅れの1971年、東京銀座三越に1号店を開店しました。

アメリカ型の郊外出店ではなく、都心部への出店でおしゃれなイメージを定着させるというアプローチが成功し、順調に店舗数を伸ばしていきました。

1977年ごろからは、郊外型の店舗でファミリー向けセット商品などの開発を進め、1990年には全都道府県での出店を果たしました。2000年以降のデフレ期を迎え、低価格路線や高級路線などさまざまな方針変更により業績が低迷。しかし、外国人女性社長であるサラ・カサノバ氏のもと、安心・安全への取り組みや、顧客や従業員への細かいフォローにより、現在では業績がV字回復しています。

日本上陸から65年あまり。戦後を象徴する「ハンバーガー」スタート物語でした。